義とする
『自分を義にすることはできないし、

他人を義にすることはできない。』



そんなことを数ヶ月前に学んだんだ。

私は相手を義にすることで必死やったなって思った。

自分が正しいと思ってることを押し通そうとして、

戦うことが多かった。

でもね、結局、

何も残らなかったんだ。

相手のことを思うが故にしてると思ってた事柄も、

「なんで?!こっちを選ばんの?」っという

責めの気持ちでいっぱいで、

もちろん自分の持ってるものは正しいかもしれない、

真実かもしれない、

でも結果、遠のいていく友達たち。。。



『自分を義にすることはできないし、

他人を義にすることはできない。』




もうやめよう。

相手を義にすることも、

自分を義にしようとすることも。

義と認める方はただひとり。

神様でしかない。



そう思ったら、すごく生きやすくなった。

戦うことがなくなった。



私のすべきことは限られてるかもしれない。

思う以上に小さな範囲かもしれない。

でもその小さな範囲に忠実に心を注ぐ時、

すごく大きな影響力を持つことができる。



私にできるのは、

人を義にすることではなくて、

人に影響を与えること。



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待ち望む
「耐え忍ぶ」って、どうしてもマイナスイメージがあるよね。

言い換えると、「待ち望む」だね。



神様の御心、時、方法を待ち望む。



待ち望む心、「自分は○○したいけど、あなたのされることは素晴らしい!だからやめます。」

我慢する心、「自分は○○したいけど、やめます。」



その違いは希望。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。・・・・」(ローマ5:3〜5)


その根拠は、神さまは私よりも知恵あって、私の最善を知っていて、望んでいるということ。



ダビデがなぜ、神の御心にかなった人と言われたのか。

その一つは、神様を待ち望んだ人だから。

普通は選ばない方法を、ダビデはやってのけた。

サウル王をこの手で打つことができたあの洞穴の出来事も、

「出て行け血まみれの男!」と罵声をかけたシムイに会ったときも、

ダビデは、耐え忍び(待ち望み)何もしなかったんだ。




待ち望むというのは、決して近道とは思えないかもしれない。

問題が起こるかもしれない。

病気になるかもしれない。

辛くて悲しい道かもしれない。

でも、神の時がある。

神の方法がある。

神の導き方がある。

だから、私は今日も歩み続ける。




『ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。
「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』(イザヤ40:27〜31)



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我慢と耐え忍ぶ
「我慢」と「耐え忍ぶ」の違い。

興味あるでしょ?



聖書にはよく、忍耐について書かれてある。

それを聞くと、ついつい何でもかんでも我慢しちゃうんだよね。

それが愛とか思っちゃってさ。

でも、我慢して自分を押し殺して傷つけて、

そういう時は、相手を愛する気持ちも実はないんだよね。

自分に対しても、相手に対しても、

どこにも愛を見出せない。



「我慢は精神をむしばんでいくけど、耐え忍ぶことは精神が傷つかない。」

境界線の学びで聞きました。

名言だね。

耐え忍ぶとは、明け渡すってこと。

「自分にはどうすることもできません。あなた(神様)に任せます。」って。

そしてそこには、『産みの苦しみ』というものが確かにあるけど、

そこには神様が絶対救ってくださるっていう喜び、希望があって、

その喜びを味わっちゃうと、

「その苦しみを負わせてください。」というセリフが私の口から出てくるかもしれないね。



我慢は、

「私が我慢します。そしたら解決するんでしょ。。。悶々。。。。」

結局、解決はきません。

フタをしてるだけ。

何かの拍子にまた出てくる。

息苦しい、しんどい、なんで神様重荷ってこんなに重たいの。。。

聖書に書いてることってしんどい。。。。



「我慢」と「耐え忍ぶ」

この違いを理解したら、すごく楽に生きられると思います。



「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
                                                        (マタイ11:29)



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究極的な『相互依存』
聖書に書いてある

「互いに愛し合い・・・互いに祈りあい・・・」

この「互い・・・」という言葉、

新約聖書の中で50回以上出てくるらしい。



でも、私たちの苦悩は、

この聖書に出てくる「互いに・・・」が、

なかなか出来ない。

今まで、不思議で不思議でたまらなかった。

しようと思うのに出来ない、何かが邪魔をする。

でも、今回気付いたんだ。

この「互いに・・・」は、

究極的な『相互依存』なのかもしれないと。

(「相互依存」については4月28日の記事、「相互依存」と「共依存」





私たちはまず、私たちを造られた神様に繋がって、

自分(相手)はいかに神様に愛されているのか、

他に見ることのない唯一の存在で、

大切にされるべき存在で、

たくさんの可能性と賜物が与えられている事を知らなければいけない。



この「共依存」ばかりの世界の中で、

私の内にも「共依存」の性質があることも認め、

神さまに益々繋がって、本当の価値を知って、

互いに・・・の世界に生きたいと思った。

それが本当の意味でできるのは、

真の価値を知った者にしかできない。



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「相互依存」と「共依存」
境界線、それは自分のものとそうでないものを明らかにすること。

昨日の学びでは、

『相互依存』と『共依存』について学んだ。



『相互依存』とは、自分の責任を持って、他と関係を持つこと。

『共依存』とは、自分の責任を持たないで、他と関係を持つこと。



一言、「依存」と聞くと、不健康のように聞こえる。

でも、本来人間は依存しないといきていけない。

「依存」とは、人に頼るということ。

当たり前だけど、人に頼ってない人なんていてないよね。

人は依存しないと生きていけないんだ。

だから、「依存」って言っても、

全部が全部悪いものじゃないよ。



でもその依存とはどういうものなのかが大切。

健康的な依存・・・

それが『相互依存』。

お互いがお互いの責任を果たして共に生きていく。

夫婦関係で言うとわかりやすいかもしれない。

お互いが、『夫』として『妻』として責任を果たし生きていく。

それは50パーゼントずつの責任じゃなく、

100パーセントずつの責任。

『夫』として100パーセント。

『妻』として100パーセント。

(ここでいう100パーセントは完璧な仕事、ノルマ的なものではない。)

「一人で幸せになれない人が、二人になっても幸せにはなれない。」って

学びの中でも言ってたけど、そういうことなんだ。

一人の責任を果たす時、初めてお互いの心が満ち足りて、

二人の関係が健全なものになる。



で!『共依存』

これは、自分の責任を果たさないで、人と関係を持つこと。

例えば、親子関係で言うと、

子供が責任を取らなければいけない部分に、

親が代わりに子供の責任を取ってしまう。

何か、子供が悪いことをした時、

親がすべてその尻拭いをする。

子供は謝らないで、親だけが謝りにいく。

先生がひとつの例を言ってくれたのは、

ある親子の話。

罪を犯した息子が警察につかまったとき、

母親は毎回保釈金を払って、息子を解放してもらってたんだ。

だけど、何度も同じ事を繰り返す息子。

あるとき、母親は決心した。

保釈金を払わないで、息子が刑務所でその刑罰を負ってくるということを。

母親はかなりの決意がいったと思うよ。

もしかして、そのことに腹をたてた息子は母親の元に一生戻ってこないかもしれない。

母親を恨むかもしれない。

でも結果は違った。

彼は刑務所の中で、時間はかかったけど自分の罪と向き合った。

そして、その期間を終え帰ってきた息子は母親に言ったんだ。



「お母さん。あの時保釈金を払わないでいてくれてありがとう。」



(彼はしっかりと責任を果たし、刑務所の中で神様にも会ったんだ)

その心は以前とはまったく違っただろうね。

母親が保釈金を払ってたとき、彼は親の愛なんて感じてなかったと思うよ。

『共依存』とは、自分の自尊心、自己価値が低いため、

相手の問題に深く関わってその自己価値を見出そうとする。

そして、関わりすぎてそこに問題が生じてくる。

でも、提供してる側は自分がこんなにも献身してるのに!と

自分の非を認めない。

でも、それを(無意識に)選んでいるのはその人自身なんだ。

男女関係も、親子関係もこの『共依存』ってよくあるよね。

そこら中に転がってる話。

責任を取りすぎる側も、取ってもらう側にも『共依存』は存在する。



それって、何を生み出すのかな。

10年後、20年後、何が残ってるのかな。

自分は今までの『共依存』の中で得るものはあったのかな。




『相互依存』と『共依存』

「境界線」を学ぶ中で、とても大切なことを学んだ気がする。


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