「教会」から「キリスト」へ
『教会』の話から『キリスト』の話へ。

口を開けば私は以前、『教会』の話ばっかりしてた気がする。




前に久しぶりに会ったクリスチャンの友達の家に泊まった時、

不思議と思い出話より、神さまが自分の人生にしてくれた話を私たちはしていた。

(12月の記事『二日目の晩』より)

本当に楽しくて、心地よくて、クリスマスという時期も重なり、

暖かいその部屋を今も鮮明に思い出すことができる。




小さい時から教会に行っていると、

ある日、自分が「教会」に繋がっていることに気付く。

「キリスト」ではなくて「教会」に繋がっている。

その口から出てくる言葉は「教会」だけ。



キリストが扉の外で待っている。。。




私は「キリスト」の話をしたい。

その中で「教会」の話をしたい。



「教会」から「キリスト」へ



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同じ痛み
同じ痛みを持った人は、心が通い合いやすい。

出産で入院した時、同じ日に出産したお母さんが4人いてた。

ご飯が一緒になったり、(そこは食堂で食べるのだ)

授乳室で一緒になったり、

顔を合わす機会が多い。

その中で、不思議とみんなが仲良くなっていく。

でも、仲良くなる様子がいつもと明らかに違う。

出産後でテンションが高くなってるのもあるけど、

同じ痛みを味わったものということで、

ある種の、『同士』という感覚だ。



30歳を過ぎると自分が体験した痛みが、人の心を開くという経験をしたことがある。

それとは逆に、自分が体験していないから、

人から拒絶されたときもある。

そんな時、自分は平々凡々と生きてるような気がして、

もっと波乱万丈な痛みを体験した方が良かったのかと感じるときがある。

でも、私は私。

他の人生を歩めない。



私は私が受けた分だけの経験でいい。

あえて自分を傷つけることはもうしなくてもいい。

誰かの心を開けないからといって自分を責めなくてもいい。

自分は経験不足といって嘆かなくてもいい。



なぜなら、

すべての痛みを背負った人がいる。

すべての人に拒絶された人がいる。

誰一人彼の味方はいなかった。



彼はすべての道を通られた。



誰かが私の前で心を開かなくても、彼がいるから大丈夫。

彼なら理解してくれる。

彼ならその涙を拭ってくれる。

私にしてくれたように。。。。



その名は、イエス・キリスト。




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彼の目
息子の目を見た。。。

その目をじっと見つめた。。。

「あ・・・私、彼を見てなかった・・・。」



いつの間にか『自分の子供』というフィルターで彼を見て、

もちろんそうなんだけど、

その先(彼自身)を見てないことに気付いた。


彼自身を見ていこう、

彼を尊重していこうっと思ってたのに、

自分の子供ってだけで止まってた。




いつの間にか表面しか見てなかったことに気付く。。。。



もう一度彼を見ていこう。

彼を知っていこう。

そう思った。



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6つの質問
Taikaのクリスチャンブロガーへの6つの質問を受けて。

なんか取材みたい。笑

「クリスチャンブロガー」って新しい役職みたいで、いいな〜。

名刺作ろうかな。笑



質問1「あなたがクリスチャンブログを始めようと思ったきっかけは何ですか?」

始めたのは2007年10月かな。
その頃「クリスチャン ブログ」で検索したらツトムジャーナルを発見してチョクチョク見てた。

「おもしろ〜〜。」

 その頃大阪で「一本」という集会に出て、私も本物になりたい!って思った。
でも何かするにも、目の前に生後1ヶ月のケイタがいてる。
家にずっといるこの期間に何かできることはないか。
そうだ、「人生を導く5つの目的」の本をしてみよう。
前からこの本の存在を知ってたけど、
時間をかける本だと思ってたので、手が出なかった。
でも、この機会だ。やってみよう!ってことで、
ちょっと前から興味があったブログという形で一日一章ずつ進めていった。
丁度20日くらいが過ぎた頃からブログランキングに参加した気がする。


質問2「あなたのブログの特徴・アピールしたい部分を教えて下さい」

ん〜〜〜。簡単な日本語を使ってるってとこかな。笑

こないだ近しい友達が「えりんぎのブログが読みたい。」って言ってくれた。
彼女はカナダ人。結婚して日本に来た。
話すのは問題ないけど、読むのはまだちょっとむずかしい。

そこでえりんぎ、
「私のブログ、むずかしい言葉使ってないで〜。」

んじゃ、周りにいた旦那のAiと、いつも読んでくれてる友達。
「そ〜そ〜。えりんぎのめっちゃ簡単!簡単!」

えりんぎ「。。。。。。。。。」

いや、そうなんやけど。。。。そう大声で「簡単!」言われると、複雑な気持ち。笑

あは。笑 

傷ついてないで。みんなが簡単!簡単!っていうのが面白かったさ。
みんなで爆笑して終わりました。


質問3「更新していくうえで、心がけていることがあったら、教えて下さい」

簡潔にまとめること。
できるだけクリアに書きたい。自分の頭を整理するために書いてるので、できるだけクリアに書いて、
自分の中で処理してる感じ。
だから、ダラダラ〜っと書いて、後で「これもいらん。」「あれもいらん。」って消すこと多し。

女性ですので、頭でゴチャゴチャになってるのを吐き出してまとめてます。


質問4「ブログを通して神様がしてくださったことって、ありますか?」

夫婦円満・笑

前にも書いたけど、夫婦の関係をより良くするためにも書いてます。
以前に書いたブログの目的を読んでください。
でも、かなりこれで円滑にまわってると思う。

後は、このブログを通して他のクリスチャン、これから神様を信じようとしてる人たちとの繋がりが与えられたこと!
これは思ってもなかったこと。
最高に楽しくて、嬉しいものです。


質問5「これから、ブログやネットを通して活動していくうえで、神様に願い求めたいことはありますか?」

このブログを通して、少しでも神様のことを知ってもらえたらと思う。

後は自分もブログを書くことによって、
「神様に聞く、そして書く(行う)」っていうスタイルを確立していきたい。
今はその訓練といえばキツイ言葉になるけど、練習していきたい。
そして、文章力もアップしたい。言葉の知恵が欲しい。


質問6「これからブログを始めてみようかな…と思っているクリスチャンの皆さんに一言」

誰でも始めれます。
自分のスタイルで良いと思う。
自分の一番楽な方法で、自分の一番好きな絵で、自分の一番励まされた言葉で、
きっと、それに共感してくれる人たちがいてると思う。
コメントがなくても(あったら嬉しいけど)、その向こうで見てる人がいてる。
たとえ自分で見れなくても(見れたら嬉しいけど)、その言葉の種が人々に影響を与えていく。
もし、それで幸せな気持ちになる人がいたらいいじゃない?
今日生きる力が与えられたいいじゃない?
何か小さくても一歩踏み出せたらいいじゃない?
「神さま。。。」って祈ってくれたら嬉しいよね!
(て自分に言ってる・笑)

追記:「自分のためにやる」これが一番の続ける秘訣かも。。。。




ということで、えりんぎの6つの質問でした。

面白い。あえて答える中でまた頭がクリアになりました。

Taikaありがと。


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バイバイ
昨日の記事「賛美の好み」を書いてから、何か自分の中で違和感があった。

なんだか気持ち悪い感じ。

今まで、ブログを書いてきて一日もこんな気持ちになったことはなかった。

毎日、「神様、示してください。」という思いで書いてる。

不思議と、毎日何かしら思いが浮かんで、

その都度、正直に記事を書いてる。


そして、もしかして、

今の自分が考えてることは、後になると恥ずかしい考えかもしれない。

今、綴ってることは間違ってるかもしれない。

でも、自分は成長するものとして、

何か変なことを書いてしまってもいいかなとも思ってる。



それにしても、なんだか変だ。。。



賛美について書いた。

賛美って教会の中でも目立つもので、

今までたくさんの人が討論してきたことだと思う。

私、まちがったこと書いたかな?

消そうかな。。。。

うむむむむむむ・・・・・・・・

あ〜気持ち悪り。。。。。



ブログを開けてみる。

何人かコメントを書いてくれてる。

近しい信友も書いてくれてる。

ん〜、ってことはそこまで変なこと書いてるわけじゃないんかな。。。

何やろ?



何やと思う??

わかりました。



「私、ドラムしてます。」っていう一文でした。

何それ?やろ・笑


私の中でね、「ドラムしてます。」って言うのかなり抵抗があるの。

何でか?

答えは簡単。

大してうまくないから。

それやのに、「ドラムしてます!」なんて言うのが恥ずかしいのさ。

「こんなレベルでドラム叩けるって言うなよ!」って言われるのが怖かってんな。


外国の人って結構、ホンマにちょっとしかできへんものを

「おれはできるんだ!」って堂々と言うって聞いたことあるけど、

純日本人の私、しかも何年も「私は駄目だ!」と思ってきたから、

それが染み付いてるんだね。



ホンマ、すぐにネガティブな自分が出てくるもんだわ。




あ〜、そう思うとスッキリした。

私は、ドラムで主を礼拝したい。

この音を主に捧げたい。

みんなと一つになって主に賛美を捧げたいんだ。

そう気付いたやん!

ネガティブ。バイバイ!



あ。。。。ネガティブ使い方あってる??(純日本人えりんぎ)



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賛美の好み
賛美好きな人、手ぇ挙げて。

はーーーーーーい!



きっと、たくさんの人が手を挙げると思う。

私の家系は音楽とは無縁でした。。。。

親も聞かないし、

私自身、家でもあんまり音楽をかけてなかった。

中学生の時とか趣味に「音楽鑑賞」とか書きたかったから、

聞いてみたけど、続かなかったね。

でも、教会に行くお陰で音楽が身近なものになって、

音楽って面白いな〜〜〜って思うようになった。

でも、相変わらず家の中では無音で生活することもしばしば。。。



突然ですが、私ドラムします。

うまくはないけど、

ドラムがハイハットでリズムを刻んでる音楽を聴くとちょっとテンションあがる。

ドカドカ叩いてるのより、ハイハットだけで楽しんでるのとかめちゃ好き。

(ハイハットとは、シンバルを2枚重ねてるもので、ドラムを叩く時のベースになるもので。。。

う〜ん、説明下手です。。。楽器してる人に聞いてみて)



人それぞれ音楽の好みってあると思うのね。

その人が聴いてきた曲でかなり変わってくると思うし、

クラシック聴いてきた人は、そういう音楽でリラックスするやろうし、

ロックを聴いてきた人は、そういう系が好きだろうし、

年代によっても変わってくるだろうしさ。

教会によっては、聖歌ばっかり歌うところもあるし、

フルバンドで海外の曲とか取り入れてる所もある。

本当それぞれだよね。



何でこういう事いうのかというと、

私さ、自分の好みで賛美礼拝にケチつけてきたことあったなって思った。

恥ずかし。。。

聖歌ばっかりだと、ムズムズしてきたり、

もっとこうしたら良いのにな〜とか、

その判断が自分の好みやった事、あったかも?って思った。



北海道にいた時に「合同賛美集会」ってのがあって、

いくつかの教会が集まって賛美するのね。

私がいてた時は3つか、多くて5つくらいの教会が順番に賛美を導く。

もう、その教会のスタイルっていったら全然違う。

フォーク系もあるし、スペイン系もあるし、英語と日本語交互て歌うところもあるし、

もう、全っ然違うのね。笑えるくらい違う。

でも、これがいいんだ〜♪

嬉しくなるんだ〜♪

どの賛美スタイルも問題ないんだ〜♪


それまでの自分は、ワーシップ(神様を称える曲)はこういうの!ってのがあって、

それ以外は「NO!」みたいな。

でも結局それは、私の好みやったんたなあって思う。

どのスタイルも神様に目を向けるときに、賛美に変わるし、

どのスタイルも心から神様に賛美してる姿を見たら、単純に感動するし、

目に見える形は本当に!関係ない。

神様の前に静まる時に、助けになる曲はあると思うねんで。

静まる時にドカドカされても困るし。

「私はこの曲で神さまに心が向くの」って人はそうしたらいいと思う。

でも、そこに私の心が伴わなければ何の意味もない。

音楽は私らの礼拝のひとつの形。

ぶっちゃけ音楽があっても、なくてもどっちでもいい。

神様は音楽を求めてるんじゃない、

だから、逆を言えば心がなければどれだけ素晴らしい言葉を口ずさんでも、

ただの歌になっちゃう。

音楽も、料理も、掃除も、仕事も、子育ても、人付き合いも目に見えるものはすべて礼拝になり得る。



神様にとっちゃ目に見えるもの自体、たいしたものじゃないんちゃうかなって最近思う。

だって、それは全部神様が与えたもの。

そこに私の心が伴ってるかどうか、それが神様にとっちゃ、

たまらない最高の礼拝なんだ。。。


追記:
私は教会において、賛美礼拝は大切な位置をしめてると思う。
賛美礼拝の回復は神様との関係の回復に繋がると思ってるし、聖書にはタンバリンを打ち鳴らすとか、手をたたくとか出てくるしね。だから教会はこの賛美礼拝を大切に考えていくべきだなと思う。真実の礼拝を教会の中で捧げたい。



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グレーゾーン
第一コリント8章に、境界線の問題が出てくる。

「偶像に捧げた肉」を食べてもいいかどうか。

ある人は「食べてもいい。」

ある人が「絶対食べてはいけない。」



「YES」か「NO」か。



ここで言われてるのは、自分の良心は強いか弱いかということじゃない。

それを論じるということは、

弟子たちが何度も繰り返した「誰が一番偉いか」というのと同じ。

もっと違うことがこの箇所に隠されてる。



この「偶像に捧げた肉」を食べるかどうかの問題は、

キリスト教でもグレーゾーンの問題だ。

こういう問題はそこら中に転がっている。

殺人、姦淫、盗み・・・・・これは明らかにわかりやすい罪だ。

でも、

日本の行事に参加すること、

ノンクリスチャンと付き合うこと、

飲み会に行くこと、

「良い。」という人もいるし、「悪い。」という人もいる。

どっちが正しい?

神様の御心はどうですか?



この8章の最後にパウロは言うんだ。

「人をつまずかせるなら、私は肉を食べない!!!」



え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!????

どんだけ〜〜〜〜〜?



それできる?

私、肉食べたいよ。

肉大好きだよ。。。

無理無理。。



何年もこの箇所がひっかかってきた。

読みたくない箇所だ。

この言葉に立つことが、私には到底できない。

もしもこの言葉に立つと、

何でも人の言うことを聞く人間になってしまう。

他人の必要を満たそうとして、

言われるがままに自分を犠牲にして、

そんなん限界があるに決まってるし、

何かが違う気がする。



でも気付いたんだ。

私はここの箇所の文字に立っていた。

文字に立つなら、絶対にできない。

無理な話。

でも愛に立つなら?

愛に立つならどうする?




このパウロの行動を見て、人々はキリストの愛を感じただろう。

彼の生き様を見て、キリストを見ただろう。

彼のうちにあるものは一体何なのか?

人々はパウロの内側に持っているものに関心を抱いた。



聖書の言葉を読むとき、文字に立ってしまうと、

それは律法へと変わる。

その言葉たちは私を縛り、落ち込ませ、何のいのちも見出さない。

でも、愛に立ったとき、その言葉たちが生きたものとなる。。。




追伸:

この世で生きる限り、私達には何らかの責任がある。

今日はこの記事も是非とも読んで欲しい。

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イエスの愛
イエスが十字架にかかる前、

その愛は余すところなく弟子たちに示された。

その時、弟子たちには理解できなかった、

イエスが言われることを。



弟子たちと私が重なる。

私には理解できてるだろうか。

イエスの伝えたいことを。

イエスの目的を。

私がわかったと思うことさえ、本当はわかってないんだろう。

理解したと思うことさえ、神様にとってどれくらいのものなんだろう。

本当ならば「このわからない者め!」と言って離れていってもおかしくない。

でも、イエスはそうされなかった。




イエスは言われた。

「互いに愛し合いなさい。」

「一つとなりなさい。」

「わたしがあなたのうちにいます。」

理解できない私を主は用いられる。



あり得ない、あり得ない、あり得ない・・・・。



でも主は言われる。




わたしにはあなたが必要です。




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永遠のいのち
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、

永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネ3章16節)


聖書の代表的な言葉。

神様はこの世を愛された。

ひとり子を与えるほどに・・・。

それを信じる人は『永遠のいのち』を持つことができる。。。。



『永遠のいのち』

この「いのち」がどうして、漢字で書かれてないことが気になった。

「命」でいいんじゃないの?

簡単な漢字だよ。「命」って。。。

でも、「いのち」

ひらがなだ。

なんでさ????



「永遠のいのち」について考えてみた。

私は、イエス・キリストを信じたときに天国にいける。

それだけしか考えてなかった。

そうとしか、日曜学校(小学生のための教会学校)で教えられてない。

何の疑問もなくスルーしてたけど、

ちょっと待てよ。

そういう意味でいけば、みんな永遠の命持ってるやん。

人間は永遠の生き物。

クリスチャンもそうでない人も永遠に続く命をもってる。

ってことは、ここでいう「永遠のいのち」は私の思ってた「いのち」じゃない。



ここでいう「いのち」は目に見えないものだ。

私たちが今、この世で生きているときも体験できる「いのち」なんだ。

そうだ、私は確かにイエスを知ってから心に「いのち」がある。

誰も奪うことのできない、

神様に心を合わせてたら、不思議と溢れてくる「いのち」。

賛美してると溢れてくるいのち。

小さいことに感謝したら、大きい感謝へと変わったいのち。

「これから神様は私の人生に何をしてくれるんやろうううう!!」希望。これもいのちだ。

私にいのちが与えられている。




聖書を開いた。

「その永遠のいのちとは、

彼らが唯一のまことの神であるあなたと、

あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」

(ヨハネ17章3節)



今日は十字架を想う日。。。

神様ありがとう。

イエスさまありがとう。

私にいのちを与えてくださってありがとう。。。



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思いの変換
昔の影響ってあると思うんだ。

私の友達もそれで苦しんでる子がたくさんいてる。

その傷が大きければ大きいほど、フラッシュバックとして、

自分の前に浮かんでくる。

専門的な助けが必要な人もいると思う。

薬が必要な人がいると思う。


でもね、すべての人が新しい人生を送っていいんだよね。

すべての人が神様の前に尊い存在なんだよね。



私ね、タバコがどうしてもやめれなかった時があるんだ。

タバコが良い悪いとかじゃなくて、

私の場合、精神的に弱くなるとタバコを吸ってしまう。

自分で買わなくても、

父親が吸ってるから一本頂戴する。

(夜になると特にね)

タバコを吸うって行為よりも、

神様じゃなくてタバコに頼る自分が嫌だった。

本当に情けなかった。

でも、その時友達が言ってくれたんだ。

「聖さに留まったらいい。」って。



それまでね、『タバコをやめなくちゃいけない。』ってことに頭がいっぱいだった。

駄目な自分、

タバコに逃げる自分、

意志の弱い自分、

そればっかりを見ては、がっかりしてた。

でも、その友達の言葉を聞いてからやってみたんだ。


タバコはさておき、神様を賛美した。

聖書を開いた。

信仰の友と語り合った。

そうこうしてるうちにタバコの存在を忘れていった。

どうしても一本がやめれなかったのに、

気付いたらやめてた。



何を言いたいかって言うと、

罪や、依存してることや、傷や、

そのことに捕らわれてることって多いと思うんだよ。

それだけを見て、自分でどうにかしようとして行き詰ってしまう。

できない自分を見てまた凹んでしまう。

もう自分はしょうもない人間だと思ってしまう。



でも、神様の言われることに目を留めてみる。

そのように歩んでみる。

礼拝してみる。

賛美してみる。

感謝してみる。

すると不思議。

自分はそういう風に作られてるから、そうなっていくんだよね。

賛美してみたら、賛美が溢れてくるんだよね。

感謝してみたら、今まで見えていなかった風景が嬉しかったりするんだよね。



思いの変換。

これが信じるということ。

何の条件もない。

ただ信じるということ。

簡単すぎて難しい?



試しにやって味噌。(←昔、流行ったんだけど。。。恥)



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今を生きる
過去の傷に目を向けすぎることは、しなくてもいいんじゃないかな。

私は過去の傷を知ることは、良いことだと思ってる。

「自分は○○に弱いからこうしよう。」ってことに役立つと思うから。

でもね、

必要以上にそこに留まり続けることはしなくてもいいんじゃないかな。



だってさ、

神様はその傷を負ってくださったんだ。

十字架で帳消しにしてくれたんだ。


あなたの過去がどんなだったかは関係ない。

あなたの過去が今の呪いになるなんてことない。

イエスはその呪いを負ってくださったんだ。

もう終わりにしようよ。

悪魔がその傷を持ってきてるんじゃない。

自分が持ってきてるって事ない?

あなたがその傷を、呪いを見続けてるってだけで、

本当はそんなものないんじゃない?



神様が言われることに立ってみようよ。

神様の約束に立ってみようよ。

自分は愛されるに値されない存在ではなくて、

自分はいのちを懸けてまで愛されてる存在だってこと、

その事実に目を留めてみようよ。




新しい人生があなたを待ってる。

新しい心があなたを支配する。

あなたの心の思いはあなが決めることができる。

信じるか、信じないかはあなたが決めたらいいんだよ。



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ブログの目的
私のブログの目的。



第一に自分を励ますため。

言葉に表すことによって、自分の考えや思い、神様からの今の語りかけをクリアにすることができる。

「できてる、できていない」関係なしに、それを目指す意味で書いている。

私を知らない人は特に、このブログだけを読んだら勘違いするかもしれないけど、

そうなりたいと奮い立たせるために、自分のために書いてます。



第二はかなり重要。

夫のAiに私の状態を知ってもらうため。

朝早く夜遅いAi。日曜日しか休みのないAi。

時間を取りたくても、どうしても難しいときがある。

そんな時、このブログが役に立ってる。

同じ霊性を持っていたい。

同じ価値観を持ちたい。

同じ思いで子育てをしたい。

他人と話すとき、同じ霊を持って言葉を発したい。

私をケアして欲しい。

彼は仕事から帰ってきて、ブログを読むのが日課です。

夫婦がひとつとなるために、このブログを書いてます。



そして第三。

他のクリスチャンたちとの関わり。

これはブログ村に参加してから新しく加わった、予想もしなかったもの。

自分だけの世界じゃなく、

いろんな視点で神様を知ることができる。

自分がう〜〜〜〜んってなってる時も、

「そうや、神様はそういう方や。」と思い起こさせてくれる。

キリストをかしらとするこの体が、ブログの世界でも見えてくるよう。

ネット上って確かに怖い部分もあるよね、

だけど、いつも誰かの神様への純粋な想いが、

私を健全な場所へと戻してくれる。

悪に利用されてるこの世界も、わたし達は所有していくことができるんだ。

文字だけだけど、

だからこそ、そこに神様への純粋な想いだけが綴られていけると思う。

これからもCBC(クリスチャンブログコミュニティ、←命名タイカ)の皆さん、よろしくね〜。



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赦されている者
『赦されている者』ということが何度か日曜日に語られている。

私たちは『赦されている者』として日々の生活を歩んでいるだろうか。



私は今、新約を読んでいる。

パウロが書いた手紙シリーズで、

その中でもちょうど、コリント人への手紙。

不品行を行うことを、「コリント人のように振舞う。」と言葉があったほど、

その町はおかしくなっていた。

パウロは何でここまでして、いろんな教会に手紙を書いたんだろう。

手紙シリーズに出てくる教会たちは、それぞれ何らかの問題を抱えていた。

パウロは、

「あなたたちは真理を知っておきながら、なぜこんな事をしているのか!

私はもう知らない!!」

と怒って関係を絶つこともできたと思うんだ。

もしそうなったとしても誰もパウロを責めない。

正しいことを知れば知るほど、その怒りは増すばかりだと思う。

だけど、パウロはそうしないで手紙を書いた。



それは何故か。。。

彼は自分が『赦された者』と知っていたからだと思う。



すべての人はキリストの前に『赦された者』だけど、

パウロはそれをきちんと認識し、その恵みを決して忘れなかった。

神と出会った後、あらゆる偉大な働きをしたパウロ、

彼はこの初めの恵みを決して忘れなかったんだ。



私はこの恵みに生きているだろうか。

教会に対して、

クリスチャンに対して、

私は何を思っているだろうか。

もちろん、教会の中でも何かおかしな事が起きることがあると思うんだ。

その時は自分の思いを確認するためにも、

牧師先生や当事者に聞いてみてもいいと思うし、

対決(言葉悪いかな?意見を述べても)してもいいと思う。





でもそこで重要なのは

私の心は「赦されている者」としてでなく、「裁く者」になってないか。

その問いかけが私にはいつも必要な気がする。


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我と我が家は主に仕えん
今日は関空に行ってきました。

北海道でお世話になったファミリーが沖縄に行くのに、

関空で乗り継ぎだったんだので、

ケイタも見せたかったし、

車でBoooooooNと行ってきました。



久しぶりに会ったM家はみんな大きくなってたぁ〜!

上の二人は私より身長高くなってるし、

下の二人も前見たときと全然違う。

そう、この家族は4人も子供がいてるんです。

私はこの家族にすごく大きな影響を受けたんだ。



北海道にいてる時、よくお家に招待してもらった。

寮生活の私にとって、家に招待されるってだけでテンションあがるんだ。

すんごく嬉しい♪



あの時も私以外に何人か招待されてたな。

子供の多い家族も来てたりして、

2階にドラムとか置いてるちょっと広めの遊び部屋があるんだけど、

そこでみんなでゲームとかやったりしてさ。

そのうちなんでか忘れたけど、みんなで輪になったの。

ゲームの名残りやったかな?

賛美歌ったかな?

そこは忘れちゃった。。。

全員で20人くらいいたと思う。

子供も大人も合わせて。



それでね、最後にそのお家の旦那さんが祈ったの。

その旦那さんはその時は洗礼受けたばっかりで、

たぶんすごく緊張してたと思う。

人前で祈るのは初めてやったかもしれん。

でもね、本当に心からのお祈りだったんだ。

真実なお祈りだったんだ。

その瞬間、ただの遊び部屋が遊び部屋じゃなくなった。

神の臨在が満ち溢れたんだ。

そして私は、

「家庭の中に教会がある〜!」

って思ったんだよね。

すごく感動した。

泣きそうになった。

ってか泣いたな。



私ね、あんまり「家庭」っていうものに期待してなかったんだ。

特に子供とか欲しくなかった。

でもね、その日ガツンっとやられた。

「あ〜家庭作りたい!」って。

家庭の中に私も「教会」を作りたいって思った。



そんな家庭に対する思いの変化もあり、

今は結婚して、子供ができて、

その「家庭」っていうものが与えられている。



前は想像もつかなかったことが起きとります。笑

夫をかしらとして、我が家は主を礼拝する家庭を築いている真っ只中であります。



健全なクリスチャンホームを日本に!!



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母の死
私にとって母の死以上に大きいものはない。

母の死によって私の人生は大きく変化したと思う。

人との接し方も、

物事の受け取り方も、

あらゆる人生の選びも。

その影響は本当に大きいものだと思う。



小学5年の時に私の母は天に召された。

病気だった。

私は母が大好きだった。

明るくて、優しくて、美人ではないけど自慢のお母さんだった。

信仰深い母親を通して、今も教会にきている婦人方もいてる。

子供の私から見ても、人から好かれてたと思う。

今思えば、小学生だから一番母親を必要としている時期で、

お母さんの弱い部分をまだ知らなかったかもしれない。



4年生くらいかな、病気がわかったのは。

教会挙げて母の癒しのために祈ってくれた。

牧師先生も、教会の人たちも病院にきてくれたし、

母も信仰をもって、点滴を自分で抜いたって聞いたこともある。

でも、結局癒されなかったんだ。


それが、私の長年のひっかかりだった。


なんで????

お母さんが生きてたら、もっと多くの人が救われたかもしれんやん!

お母さんが生きてたら、私は寂しい思いしなくても済んだじゃない!

お母さんが生きてたら、相談できるのに・・・。

お母さんが生きてたら、私はもっと素直に生きられたのに。

お母さんが生きてたら・・・・。

お母さんが生きてたら・・・・。



私の問いは何年も深いところで潜んでいた。

でも、以前とは随分変わってきたんだ。

少しだけ神様教えてくれてるんだ。

(そのひとつ10月の記事永遠に生きる存在として造られた

きっと全部は自分が天国にいくまで、明らかにはならんと思う。

だからそういう意味ではまだ、潜んでいることになるかもしれない。

いや、

今はもう「潜んでいる」ではない、「持っている」っていう表現の方が合ってる。




きっと多くの人が私に慰めの言葉をかけたと思う(あまり覚えてない、ごめんなさい)。

実際、その後に家のゴチャゴチャがあったとき、

私を引き取ろうと考えてた教会の先生もいてた。

でもね時間が経てば、そのことにもあまり触れられなくなる。

私が小学生の時に片親ってあんまりいてなかったけど、

今じゃ結構いてるし、よくある話。

だけど、

人の寂しさって人と比べて癒されるものじゃないんだよね。




今日の朝、また新しく気付いたんだ。

このことで、私を慰めてくれてたのは他でもない神様だった。

私から母親を奪った(母の死を許した)神様だったんだ。




顔と顔を合わせて慰めてくれたのは神様。

ひとりだと思ってたただ中に、寄り添い続けてくれたのは神様。

最初から最後までそばにいてくれたのは、神様ただひとりだったんだよ。



その事実に神様の計り知れない何かを感じました。


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最善の奉仕
神様が与えてくれるものに「喜び」がある。

「幸せ」ってピンとこなかったけど、

「喜び」にピンと来る。

そうそう、神様は喜びを与えてくださる。

それが人の目に「幸せ」と写るんだろう。



あるメッセージで、他人のためにできる最善の奉仕は何かという事を聞いた。

それは

「機嫌が良い」ということ。



確かに〜〜!!!

ハイ!思い当たります!


機嫌の悪い人には近寄りたくないもんね。

私とAiもそうだね。

どちらかと言うと機嫌が悪くなるのはいつも私。

99.8パーセントは私だね。

ていうか0.2パーセントは浮かばないくらい私ばっかりだ。。。(でも100パーセントにはしたくない)

あ、凹んできた。。。ウソウソ。

そう思うといつも機嫌がいい(というか機嫌が悪くない)Aiにもっと感謝しないとね。


Aiの仕事は朝早くて、夜遅い。

そうすると、大概の奥さんは文句を言うんだって。

そりゃ言いたくなる気持ちもわかる。

家でひとり、子育てに奮闘してるんだもん。

でも、そうなると旦那さんは帰りたくなくなるみたい。

ただでさえ帰りが遅いのに、どこか一杯飲みにいこうかってなる。

そうなると、また奥さんは機嫌が悪くなる。。の悪循環。



もし機嫌良く迎えることができるなら、

10分早く帰ってくるかもよ。



こないだ、仲良くしてる4家族と誕生日パーティーをしたんだ。

そこでちょっとしたゲームをした。

「私は誰でしょうゲーム」

子供は遊ばせといて、

大人だけでやったんだけど、

一つの紙に質問がいくつか書いてあって、

みんなに事前に記入してもらうの。

その記入してもらった紙を司会者が集めて、

名前を明かさずに読み上げるんだよね。

そして、他のみんながそれが誰なのか当てていくゲーム。

質問の内容は、

あなたは何色が好きですか?

あなたの最近はまってるものは何ですか?

好きなラーメン屋は何ですか?

などなど・・・。

意外な一面が見れて面白い。



その中でね、ひとつ。

「あなたのパートナーの好きなところは何ですか?」

って質問を入れたの。(ゲーム担当は我が家)

すると、

いつもあまり話さないM君が、

「仕事を終えて電話をかけるとき、元気に妻が電話に出てくれること。」

って書いてたんだよね。

ひや〜〜〜〜〜〜♪

聞いてる私たちが嬉しくなったよ。

ていうか、聞いてた奥さんが一番テンション上がってた・笑

ねっ?!笑



あなたも知らない間に誰かを元気にしてるかもしれないよ。

私はとりあえず、元気にAiの帰りを迎えようかな。笑




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NOから生まれてくるもの
人生はNOから生まれてくるものから、得ることが多い。

若いときはね、神様が祝福してくださるなら、

次から次へと良いことばかりが起きるんだ!って信じてたんだよね。

でも実際は違うかった。

失恋したり、

母親を亡くしたり、

口にも出したくない事が起こったり、

でもね、

最近思うんだ。

すべてが上手くいってる時って何か大切なものを忘れてたりする。

自分のことばっかりで、

人を思いやる気持ちとか、

神様を求める心とか・・・さ。



全部が全部じゃないよ。

祝福されたことを神様に感謝していくって大切だと思うし、

そういうもので神様の祝福を体中で受け取って「神様最高〜!!」って賛美する時あるよ。



でも今31歳になって思うのは、

私の人生の苦しみ、孤独が神様を渇望する基になってたってこと。

「なんで?神様。」

「苦しいよ。神様。」

「神様どこにいるの?」

そういう心絞る思いが私と神様を近づけた。



そして、時にはその苦しみを通して、

人の心を開かせてくださるんだ。

もう10年も前の出来事も、

もう20年も前の出来事も、

神様は今用いて、働かれる。

そして、

そういった出来事が人の心を開かせるってだけのものじゃないんだよ。


私のなかに、どこか深いところで目に見えないものが蓄積されて、

感情で左右されない信仰が形成されるんだと思う。

だから、

人生の苦しみって神様の大きな御手の中にあると信じる。

私らには考えもつかない方法で、

神さまは人々を神のみもとへと近づかせてくださるんだ。




だからと言って私は、

「神様苦しみを与えてください・・・」とは祈らないけど、

これからも、背後で働く神様にすがっていきたいって思う。



「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」   (ローマ人への手紙8章28節)



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初めて?の我
最近のケイタは『我』が出てきた。

今までは、なすがまま状態だったのが、

6ヶ月ににして、「いや〜〜〜!」っていうのを表に出してきた。

特にお乳をあげてる時、

途中で終わるもんなら、「うんぎゃ〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!」という大音量と

凄い形相で体をくねらせる。

それは子供とは思えないくらいの力で、

大人の私でさえ、ケイタの背中をまっすぐにして座らすことはできない。




でも、その『我』をどうやって対処していくかがこれからの課題だなと思う。

「何でもかんでも駄目!親の言うこと聞きなさい。」

っていうのは親のエゴだと思うし、

「好きなようにしなさ〜〜〜〜〜い♪」

は、親の責任を放棄してるのと一緒だと思う。

子供産むにあたって出会った本の中に、

『産まれてきた子は何もかも初めて、世の中のこと何もしらないのよ。

だからあなたが教えてあげなさい。

それはコントロールじゃなくて、リードしてあげるの。』

みたいなことが書いてあった。

親の私も初めてのことばかりだけど、

世の中の生活については(ご飯を食べるとかお風呂に入れるとか)

彼よりも大ベテランだ。

その考えでいくとかなり子育てが楽になった。

でも、これからドンドン『我』がでてくるわが息子に、

私はどうやって過ごしたらいいかな。



ホーリーライトがコメントでくれてたけど、

「神さまの作品として預かっている」これに尽きると思う。

「親はどれだけ早く子離れできるかが鍵」とも聞いたことがある。

子供は自分の所有物じゃない。

親が子供に依存しすぎて苦しんできた子供たちを何人も見たことがある。

子供を尊重すること、

それは子供のわがまま放題ではなくて、

彼が自分の感情をコントロールできるように、

人を尊重できるように、小さいうちに手助けしてあげる。

この記憶に残らない今の時期に、

後に影響する基が形成されていく。



親というのは本当に大切な神様から頂いているひとつの働きだと思う。

たくさんの知恵と助けが必要だ。

自分の弱さも思い知らされる。

でも、そこでいつも助けてくださる方がいてる。

感謝なことだ。

もし、神様が取られるときがくるのであれば、

喜んで手離すことができるように今から祈ろうね。



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自尊心
昨日Aiが言った。

「本におもしろいこと書いてたよ。神にある自尊心を持つ大切さについて。」



今日の朝もっと知りたかったから、『自尊心』について調べてみた。

『大辞泉』より

『ウィキペディア(Wikipedia)』より


↑まず開いて読んでみて。

『大辞泉』には「プライド」って書いてるけど、

『ウィキペディア(Wikipedia)』に、英語ではprideよりself-esteem を使うって書いてある。




「神様にある自尊心」

その土台のひとつは、

神様が私を造られたということ。

そしてもうひとつは、

造られただけで終わらず、イエスはいのちを懸けてまで私を愛されたということ。



確かに私たちは罪人。

したくもないと思ってることをしてしまう。

聖書で言われてることとまったく逆のことをしてしまう。

もう絶対しないと決意した次の日に同じことをしてしまったり、

恵まれたと思った次の瞬間に落ち込んだり、

そんな繰り返しに自分が嫌でしょうがなくなることがある。




もし、聖書の書かれてる文字だけを土台にするなら、

それは最も神様の嫌われる律法主義者になるし、

自分のどうしようもなさに打ちのめされるだろう。

だけど、私の土台が

神様が私を造られたこと、いのちを懸けられたこと、

神の愛に土台をすえるなら、

聖書の言葉は生きたものとして私の中に入って、

律法だったものが私の礼拝へと変わる。



「自尊心」を調べてて面白かったのは、

その類義語の「自負心」

土台は私たちの仕事や才能じゃない。

私たちを造られた神様にあるんだ。

そこには私は私でしかないってこと。

世界のどこを探しても、

歴史の最初から現在まで探しても見つからない私という唯一の存在。



私は私をもっと愛していい。



今日は引用が多かったけど、みんなにも知って欲しかったんだ。

なんか嬉しくなってきてさ。

「神にある自尊心」なんかウキウキしてくるよね!!



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神の御心
クリスチャン生活26年くらいかな??

初めて教会に行ったのは幼稚園の時。

それから、浮きもしたり沈みもしたり。

結構な年月が経っちゃいました。

それまでたくさんの情報量(教会での)が入ってると思う。

聖書の話、

最近のクリスチャンのブーム、

日本の教会の流れ、

誰かが宣教に行ったとか、

誰かが癒されたとか、

もうありとあらゆる情報が頭に入ってる。

(いや覚えてるとかじゃなくて、私は覚えるの苦手です)

その中でこれが御心やと思って取り組んできたことがいつの間にか消滅してたり、

盛り上がってた集まりがいつの間にかシケシケになってたり。

そんな事が繰り返されると、わからなくなってくるんだよね。

「神様の御心は一体何なのか?」

「神様の御心と思ってたのに、違うかったのか?」


そして、

「もしそれを見落としたら私は失敗者なのか?」

そんな疑問を持つようにになってくる。

だからいつもその場所に満足できないでいる自分。

「今が充分じゃない。もっと上の神様の御心があるはず。」


私にとってこの『神の御心』というものはいつも形あるものだった。

聖書学校に行くことだったり、

他から羨ましがられる仕事だったり、

楽器をプロ並みに弾けるようになることだったり、

・・・・。

でも、最近思うんだ。

そんなの大したことないんじゃないかな。

神様の目には、私が聖書学校に行こうと、

どんな仕事に就こうと、

どこかの国に行こうと、

プロ並みに楽器に弾けるようになろうとあまり関係ないんじゃないかなって思う。

その行為に神様は関心を置かれてるんじゃなくて、

それが私にとって礼拝かどうかってこと。

私は何年か前に聖書学校に行った。

もちろんその学びは私にとって宝物。

だけど、神様は私のその行為じゃなくて、

「神様のために何かしたい。」

という心を喜ばれたと思う。

そして、私が「神様を愛する」という延長線に聖書学校を置いてくれたってそう思う。

私が、聖書学校の思いが与えられてからの道は、

次から次へと扉が開いた。

でも学校に行くとね、そうじゃない人もたくさんいてた。

何度も何度も妨げられて、(まぁ結局は開かれてそこにいるんだけど)

でもその人も言うんだよね。

「この学校に来ることが神様の御心でした。」って。



同じなのは、私もその人も学校に来るまでの道のり、

「神様を愛します。」という礼拝があったこと。



『聖書学校に行く』って事を神様喜ばれるんじゃなくて、

「神様、あなたの御心の中を歩みたい。この聖書学校はそうなのか教えてください。」

そうやって神様に心を向けた礼拝の心を喜ばれたんだと思う。



なんか、「神様の御心を求めよう」って聞くうちに、

『御心』を形あるものって思ってたけど、

神様がいつも求めてるのは私の心。

私の心が神様に向いてるかどうかってことだ。

その時点で私はすでに神様の御心の中にいてるんやって思う。


「収穫は多いが働き人が少ない・・・」というように、

世界中で必要がある。

でも最初っから私たちの人生が決まってて、

これこれこの通りに歩まないと「はい!ダメー!!」っていうようなものじゃなくて、

神様は「私はあなたのために働きたいんです。」っていう人を探してて、

その働きを任せられるんだと思う。



もし、その中で私に教えようとしている深いものがあるなら、

人の目には素晴らしいと思う働きも神様はストップされるだろう。

神様の関心は働きそのものよりも、私たち一人一人。



99匹の羊を置いて1匹を探される方。

羊飼いという仕事よりも羊1匹にいのちをかける方。

私は今主を愛しているかどうか、

愛しているなら私は神の御心のただ中にいる。



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後に続くもの。。。
最近のケイタはよく手を組んでお祈りしてるみたいな格好をする。

でも、彼は何をしてるのかわからない。

ただ、自分の手を使って遊んでるんだろう。

でも、願わくはそれが本当に神様への祈りとなって欲しい。


最初は親のまねをするだろう。

お祈りをしたり、

御言葉を覚えたり、

元気よく賛美したり、

それを見て私は「よくできたね。」と褒める。

親が褒めるから、

周りの大人が褒めるから、

最初はきっとそうやって祈ること、賛美することを覚えるんだろうな。

でも、それがいつか「彼のもの」になって欲しい。

親の信仰でなくて、

誰か格好いい人の信仰でなくて、

彼自身の、ケイタの信仰になって欲しい。

その為に私は今彼に種を蒔いているんだ。

この小さくて訳がわからないこのときも、

聞いていないだろうと思うあのときも、

大切に大切にしていきたい。

私自身が神様に繋がって、

私だけで終わると考えないで、

彼に、又彼の子どもたちに続いていくものを私は今築いてる。


真剣に、今のときを歩みたい。。。



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目に見えないもの
前にダビデとサウルの違いを礼拝で話されたことがあって、

その違いは

「サウルは目に見えるものを追い求めた。

ダビデは目に見えないものを追い求めた。」



このこと、昨日Aiは仕事の帰り道考えてたんだって。

それで、私が昨日の記事にダビデのことを書いてたから嬉しかったらしい。

私もね、昨日思ってたんだ。

もちろん救いのことを思い返すことは大切なこと。

でも、これからの歩みも、

そしてたった今も、

神様の目が私に注がれてることがとてつもなく嬉しかった。



何度も言うけど、今家にいることが多いでしょ。

まったく家を出ない日なんてザラにある。

前は仕事してたり、

友達に会ったり、

集会に出たりできたんだよね。

でも今はそんな生活はできない。

だけどね、

そんな家の中でさえ、

神様の目が一筋の光となって私に注がれてることが嬉しいんだ。



ダビデのように、目に見えないものを信じて歩む者でいたい。

ゴリアテを倒したときだって、

王の召命を受けながらも荒野で逃げ回ってたときだって、

王様になって裸になりながら喜び踊ったときだって、

ダビデは目に見えないものに目を留めていた。



私も私の家族も目に見えないものに目を留めて歩んで生きたい。


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