問題によって造り変えられる
この世に生きているかぎり、問題はたくさんやってくる。

なぜ、クリスチャンになっても問題があるのか。

クリスチャンになれば楽しいことばっかりではないのか。

聖書にはそう書いてない。

むしろ、聖書にに出てくる人物は

逃亡生活であったり、牢獄に入れられたり、殺されたり・・・。

この世に生きている限り問題は付き物だ。

なぜはそれを許されるのか。

問題の中にあって私たちは初めて、を求める心を見出すのだ。

何もかもうまくいっている時も、の話はする。

でも、そこにはいてるのか。

大抵、を置き去りにしての話をしているのではないか。

又、聞く耳は持っているのか。

人々に対する思いやりもなく、苦難の中にいる人を無視して、

信仰が弱いとか、高慢な気持ちが少しも入ってないと言えるだろうか。

は苦難を用いて私を、似姿へと変えていく。

私は苦難の中で、を最も礼拝し頼り助けを求める。

苦難の中が最もに近い場所ともいえる。


を愛する人々、つまりの目的に従って救われた人々のためには、がすべてのことを働かせて益としてくださるということです。それはがご自身に属する人々を前もって知っておられ、御子と同じかたちに彼らを定められたからです。」(ローマ8:28、29)

その目的はキリストの似姿に変えられていくということ。

問題の中でに焦点をあてるとき、私はキリストの似姿に変えられていく。

それは苦難の中で天の父に従うという美しさ。

苦難の中にあっても、決して人を見捨てず愛しぬかれた美しさ。

私はその似姿へと変えられるという特権を与えられているのだ。

この限られた人生の中で、どれだけの苦難を用いて私は成長することができようか。

苦難から逃げて同じところをグルグルと回りたくはない。

ひとつひとつ受け取って、キリストの似姿に変えられる機会として用いたい。

御言葉をただ読むだけでは何も体験することはできない。

私は現実に生きているのだから、は聖書を読むこと以上にこの世の状況を用いられる。

私の24時間はこの世の現実なのだから。

御言葉をただの言葉に終わらすのではなくて、

この置かれている生活の中で私が御言葉にたつとき、

その力は発揮され、を体験することができる。



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