「相互依存」と「共依存」
境界線、それは自分のものとそうでないものを明らかにすること。

昨日の学びでは、

『相互依存』と『共依存』について学んだ。



『相互依存』とは、自分の責任を持って、他と関係を持つこと。

『共依存』とは、自分の責任を持たないで、他と関係を持つこと。



一言、「依存」と聞くと、不健康のように聞こえる。

でも、本来人間は依存しないといきていけない。

「依存」とは、人に頼るということ。

当たり前だけど、人に頼ってない人なんていてないよね。

人は依存しないと生きていけないんだ。

だから、「依存」って言っても、

全部が全部悪いものじゃないよ。



でもその依存とはどういうものなのかが大切。

健康的な依存・・・

それが『相互依存』。

お互いがお互いの責任を果たして共に生きていく。

夫婦関係で言うとわかりやすいかもしれない。

お互いが、『夫』として『妻』として責任を果たし生きていく。

それは50パーゼントずつの責任じゃなく、

100パーセントずつの責任。

『夫』として100パーセント。

『妻』として100パーセント。

(ここでいう100パーセントは完璧な仕事、ノルマ的なものではない。)

「一人で幸せになれない人が、二人になっても幸せにはなれない。」って

学びの中でも言ってたけど、そういうことなんだ。

一人の責任を果たす時、初めてお互いの心が満ち足りて、

二人の関係が健全なものになる。



で!『共依存』

これは、自分の責任を果たさないで、人と関係を持つこと。

例えば、親子関係で言うと、

子供が責任を取らなければいけない部分に、

親が代わりに子供の責任を取ってしまう。

何か、子供が悪いことをした時、

親がすべてその尻拭いをする。

子供は謝らないで、親だけが謝りにいく。

先生がひとつの例を言ってくれたのは、

ある親子の話。

罪を犯した息子が警察につかまったとき、

母親は毎回保釈金を払って、息子を解放してもらってたんだ。

だけど、何度も同じ事を繰り返す息子。

あるとき、母親は決心した。

保釈金を払わないで、息子が刑務所でその刑罰を負ってくるということを。

母親はかなりの決意がいったと思うよ。

もしかして、そのことに腹をたてた息子は母親の元に一生戻ってこないかもしれない。

母親を恨むかもしれない。

でも結果は違った。

彼は刑務所の中で、時間はかかったけど自分の罪と向き合った。

そして、その期間を終え帰ってきた息子は母親に言ったんだ。



「お母さん。あの時保釈金を払わないでいてくれてありがとう。」



(彼はしっかりと責任を果たし、刑務所の中で神様にも会ったんだ)

その心は以前とはまったく違っただろうね。

母親が保釈金を払ってたとき、彼は親の愛なんて感じてなかったと思うよ。

『共依存』とは、自分の自尊心、自己価値が低いため、

相手の問題に深く関わってその自己価値を見出そうとする。

そして、関わりすぎてそこに問題が生じてくる。

でも、提供してる側は自分がこんなにも献身してるのに!と

自分の非を認めない。

でも、それを(無意識に)選んでいるのはその人自身なんだ。

男女関係も、親子関係もこの『共依存』ってよくあるよね。

そこら中に転がってる話。

責任を取りすぎる側も、取ってもらう側にも『共依存』は存在する。



それって、何を生み出すのかな。

10年後、20年後、何が残ってるのかな。

自分は今までの『共依存』の中で得るものはあったのかな。




『相互依存』と『共依存』

「境界線」を学ぶ中で、とても大切なことを学んだ気がする。


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グレーゾーン
第一コリント8章に、境界線の問題が出てくる。

「偶像に捧げた肉」を食べてもいいかどうか。

ある人は「食べてもいい。」

ある人が「絶対食べてはいけない。」



「YES」か「NO」か。



ここで言われてるのは、自分の良心は強いか弱いかということじゃない。

それを論じるということは、

弟子たちが何度も繰り返した「誰が一番偉いか」というのと同じ。

もっと違うことがこの箇所に隠されてる。



この「偶像に捧げた肉」を食べるかどうかの問題は、

キリスト教でもグレーゾーンの問題だ。

こういう問題はそこら中に転がっている。

殺人、姦淫、盗み・・・・・これは明らかにわかりやすい罪だ。

でも、

日本の行事に参加すること、

ノンクリスチャンと付き合うこと、

飲み会に行くこと、

「良い。」という人もいるし、「悪い。」という人もいる。

どっちが正しい?

神様の御心はどうですか?



この8章の最後にパウロは言うんだ。

「人をつまずかせるなら、私は肉を食べない!!!」



え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!????

どんだけ〜〜〜〜〜?



それできる?

私、肉食べたいよ。

肉大好きだよ。。。

無理無理。。



何年もこの箇所がひっかかってきた。

読みたくない箇所だ。

この言葉に立つことが、私には到底できない。

もしもこの言葉に立つと、

何でも人の言うことを聞く人間になってしまう。

他人の必要を満たそうとして、

言われるがままに自分を犠牲にして、

そんなん限界があるに決まってるし、

何かが違う気がする。



でも気付いたんだ。

私はここの箇所の文字に立っていた。

文字に立つなら、絶対にできない。

無理な話。

でも愛に立つなら?

愛に立つならどうする?




このパウロの行動を見て、人々はキリストの愛を感じただろう。

彼の生き様を見て、キリストを見ただろう。

彼のうちにあるものは一体何なのか?

人々はパウロの内側に持っているものに関心を抱いた。



聖書の言葉を読むとき、文字に立ってしまうと、

それは律法へと変わる。

その言葉たちは私を縛り、落ち込ませ、何のいのちも見出さない。

でも、愛に立ったとき、その言葉たちが生きたものとなる。。。




追伸:

この世で生きる限り、私達には何らかの責任がある。

今日はこの記事も是非とも読んで欲しい。

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私の価値
先生がある例えをしてくれました。


「もし、あなたが友達から高価な服をもらったとします。

あなたはそれを着て何と言いますか?

『いや〜、それ程でもないですよ。この服。

あんまり良くないでしょ?

ここ見てください。

ここのデザイン、おかしいと思いません?

なんでこんな風にしたんでしょうね。

えっ?!いい??

この服が??

まさかまさか、全然良くないですよ!

高価でもなんでもないです。』


そう言いますか?

もし、その服をくれた人が隣にいたらどうしますか?

絶対にそんなこと言わないですよね。

そんなこと言ったら頭、はたかれますよね。

でも、私たちは同じことをしてます。

私たちは必要以上に自分を否定してないですか?

神様が肯定してくださってるのに、私たちが否定してしまってないですか。

私は誰かと話すとき、イエス様がそこにいると思って話します。」



神様は私たちを造られた。

そこにはただ神様の愛と喜びがあった。

そしてそれだけで終わりでなく、

罪人の私たちのために、

イエスは十字架にかかられ死んでくださった。

そこに、神様の深い愛と私たちの本当の価値がある。


もし、私が自分の価値を否定してしまったら、

神様をも(創造も十字架も)否定してしまうことになる。

十字架にまでかかられたイエスキリストは、どう言うだろう。

「わたしはあなたに命をかけたんだよ。

わたしはそれほどまで、あなたを救いたかったんだ。

わたしは決して後悔してないけど、

あなたがそう言うなら悲しいじゃないか。

わたしはそうしたかった。そうせずにはおれなかった。

それほどあなたが大切なんだよ。


愛してるよ。


あなたはわたしの十字架を否定するのかい?」


イエスがこう言われるかはわからないけど、

自分の価値を、自分が否定してはいけないと思う。


いくら周りが自分を否定したとしても、ただひとり肯定してくださる方がいる。

それがイエス・キリスト。

私たちの救い主ジーザス。





Aiが学びのなかで言ってた。

「仕事してると否定されてばっかりです。

自分が立てた計画を否定される、
(彼は現場監督です)

もっとこうした方がいい、ああした方がいいと言われる度に、

自分は駄目な人間なんだと言われてる気がする。

でも、決してそうじゃない。

神様は自分のためにいのちを捨ててくださった。

それほどまでに自分には価値があるんだ。

周りが例え価値がないと言っても(実際はそこまで言ってないことが多い)

神様が私に価値を置いてくださってる。

自分は今回境界線を引くことによって、前ほど傷つくことがなくなってきました。」



まだ、わたしたちは学び中。

何度も人と比べ、自分は価値がないんじゃないか思ってしまう。

でも、イエスは決してそう言われない。

決して私を見捨てない。

私のために死を選んでくださった。

私には一人の人の命がかかっている。

ここに私の土台がある。



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他人の「NO」と自分の「NO」
久々の境界線についてです。

いろんなブログで境界線について知りたい人は

「ERINNG」日記を読んだらいいって紹介してもらってるんやけど、

私だけが感じたこと、学んだことを書いてるので、

私の個人的な状況や、過去が影響してるところもあると思います。

(でも、紹介してくれてるみんな本当に嬉しいです♪ありがとう!)

境界線を持ってお読みください・笑

そしてやっぱり、

境界線の本をお読みすることをお勧めします。

(分厚いけど、読み始めたら入り込むと思うよ〜)



では、今回も「NO」シリーズです。

(もし良かったら前の記事も読んでください。「あなたはNOと言えますか?」より)




自分が他人に「NO」という時、みんなはどうしてますか?

「NO」 + いろ〜〜〜〜〜〜んな理由つけてないですか?



「ごめんね〜。○○できないんだ。(←NO)

でも、本当はしたいんだよ。

だけど、どうしても行かないといけない所があってね。

行きたいんだけど、行けないんだ。

本当に本当に行きたいんだよ。

・・・

あなたのことが嫌いとかじゃないからね。

誤解しないでね。

そんなんじゃなくて、本当に用事があるのよ。

次、また誘ってね。

本当に本当だよ。

大丈夫?本当に嫌とかじゃないからね。

・・・・・・・・・・・続く。」

みたいな。

経験ない??

私、ある。。。



で、次は自分が他人にNOと言われたとき、

私の場合、(ドラムを叩くとき)

「リズム遅くなってない??」(←ある意味NO)


『ガ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ン!!!!!!

マジ?うわ〜、私?やってもうた〜。

みんな感じてたんかな〜。

賛美しながら、みんなえりんぎのドラムおかしいって思ってたんかな?

私、やっぱりドラム奉仕辞めたほうがいいんやわ。

みんなの邪魔になるわ。

これ終わったら辞めるって言おう。

それがみんなの為なんやわ。

私、やっぱりあかんわ。

あかんところばっかり・・・

いい所全然ないやん。

もう最悪や。

あ〜神様なんで、私造ったんやろ。。。。」



みたいな。

「ただ、リズム遅くなってるよ〜。」と言われただけやのに、

私の存在全否定されたみたいに受け取ってしまう。(極端?でも心当たりない?)



自分が発する「NO」と他人が発する「NO」

全然違うと思いませんか?


自分が発する「NO」は軽く軽く受け取って欲しい。

他人が発する「NO」は重く重く受け取ってしまう。



このバランスが同じ人の「NO」は本当に軽く聞こえる。

境界線の学びをしてるといつも思い出す友達がいるんだけど、

彼女の「NO」は本当に軽い。

彼女にある件で「NO」と言われても、

その件に関してだけ「NO」なんだってわかる。

決して人を否定してるわけじゃなく

「あっ、その日無理なの。ごめんね。」で終わる。

すると私も、あっそうなんだ。んじゃまた今度♪

それで、次誘うときも何の引っ掛かりもなく誘えて、

また断られたとしても「OK。んじゃまたね♪」

そして私は、彼女の「YES」は本当の「YES」ってことを知ってる。

私は彼女のこと心から信頼してます。



自分から他人への「NO」と、他人から自分への「NO」のバランスを一緒にする。

境界線の実践をスタートするのに、とても大切なことだと思いました。



また、明日も境界線で学んだこと書きたいと思います。


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ひとりになる大切さ
境界線、境界線って言ってるけど、なんか寂しくなってない?

んじゃ、本気で関わってくれる人なんてこの世に存在したらあかんのん???

そうじゃないよ。

本気で関わるから境界線が必要になってくるんだ。

確かに人は自分以外の人と関係を持って成長していけるね。

人を通して神様からのたくさんの励まし、慰めを受ける。

でも、それがその人に依存して繋がっていったらどうなる?

その人が失敗したらどうする?

トイレに行ってて電話が取れなかったらどうする?

どれだけ、気を付けても期待と違う反応が返ってくる時がくるよ。

駆けつけれないときがきっとくるよ。


はっきり言うね。

傷つく時がきます!

それは私も体験したし、多くの人が体験してるよね。


境界線は、人と神様の関係を繋げるために必要不可欠なんだ。

まず自分が境界線をつくることで、神様と自分との関係を築くことができる。

そして、

自分が境界線をつくることによって、

大切な人も神様と繋がる時間をつくることができるんだ。

人は絶対に一人になる事が必要。

一人になって神様との時間を持つことが必要。

イエス様もそうされたよね。

弟子たちと多くの時間を過ごしたけど、

一人さみしく山に行かれた。。。



結婚してもね、同じだよ。

一人の人間として、

妻でもなく、

母でもなく、

ただ神様に造られた一人の娘として神様の前に立つ。

だから、結婚してない人は特に、

今与えられている一人の自由な時間を、

たっぷりと神様と過ごしたらいいと思う。

それが後になって、強固な土台となる。

もちろん結婚は素晴らしい。

早くしたい人もいると思う。

夫婦と神様の三つ撚りの糸の体験はとても深くて、

私もまだ最初の一握りしか体験してないと思う。

でも、その一つの糸が独身時代にしっかりと築きあげられるなら、

本当に素晴らしく強いものとなること間違いなし!

そして、ぶっとい糸の持ち主あなたのパートナーと出会う時がくる。


話を戻して、

最初はさ、依存から入ること多いと思うんだ。

「この人言ってることすごいな〜〜。」とか。

でもひとつの箇所を紹介します。

サマリヤの女知ってる?

知らない人は聖書(ヨハネによる福音書4章)を読んでください。

サマリヤの女がイエスさまと出会って喜んで町の人に話した。

最初は町の人はその女の言葉によってイエスさまを信じた。

でもその後言うんだよ。

ここがめっちゃ好き♪

『そして彼らはその女に言った。「私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうの世の救い主だと知っているのです。」』
(ヨハネ4:42)

サマリヤの女も「やられた〜。」って思っただろうね・笑



神様との個人的な関係。

これが決して揺るぐことのない、

変わることのない、

信頼できるわたしたちの土台。


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